恥ずかしいという意識に関して
"恥ずかしさ"
必要だと思う反面、何とも面倒臭い機能ともいえる。
恥ずかしさがなければもっと自由に行動できるのにと思ったことは、誰しも一度や二度だけではないだろう。
恥ずかしさをわかりやすく極端な例で考えてみるが、『羞恥プレイ』といって恥ずかしさを快楽として楽しむ大人の遊びがある。
これを楽しむ人たちは恥ずかしくて知られたくないといった反面、自分のすべてを知って欲しいという欲求を満たそうとしている。
それが快楽につながるか否かは調教の熟練度によるものだが、それは今は関係ない。
知られくない意識と知られたい欲求の二律背反がそこにはある。
また、『知られてもかまわないことを知られること』と、『知られてはいけないことを知られること』では満足度が大きく違ってくるだろう。
前者は当たり前のことで、所謂単なる自己顕示欲求のことである。
後者の方は下手をすると不快感が勝ってしまうかもしれないが、それは強い刺激となってくるだろう。
刺激を受けることは何よりもいい。
ただ恥ずかしがりですぐ赤面をしてしまう人にはなかなか高いハードルであろう。
恥ずかしさよりも強い行動意欲を持って、この羞恥プレイ(いやらしい意味ではなく)を実行する事をお勧めする。
そして私は恥ずかしいと思いながら、この駄文を投稿して赤面をしてしまう。